frozen pansy
- 2006/05/31 18:13
カウボーイビバップ/スパイクネームレス夢
火星のチャイニーズタウンは、いつも通りの喧騒。太陽系一の賑やかさと噂される大通りは、蒼然と暮れなずむ空を気にもかけない人々でごった返している。
年齢や性別、人種すらも超えて騒々しさを奏でる人ごみを縫うようにして、スパイク・スピーゲルはダークブルーのジャケットを羽織る背を丸めながら道を反れる。露店だらけの表通りと違い、たった一本路地裏に回るだけで世界が暗くなった。
賑わいが少し遠くなって圧迫感から解放され、咥えていた煙草へ徐に火を点けた。煙草とチャイニーズタウン独特の香りが混ざり合い、懐かしい故郷のノスタルジアに浸る。
しかし、警戒心を緩めるわけにはいかなかった。
この火星は、スパイクの出身地であるとともに、彼がかつて所属し、因縁深いレッド・ドラゴンという組織が存在する場所でもあるのだ。
それでも、被るリスクを押し退けてでも、ここへ訪れた目的がある。
自らと同じく、元組織員だった女へ会いに――ただ、それだけのこと。
大人が三人も乗れなさそうな、壁が剥き出しのエレベーター。薄暗い箱に乗り込んで三階のボタンを押す。壊れそうな音を立てて到着すると、格子状の扉が開いた。
訪れたアパートは、エレベーター同様に古めかしい。茶色の瞳を薄汚れた壁のどこにも向けず、スパイクが向かうのは一番奥の部屋だ。
扉の前の蛍光灯は、既に寿命を終えようとしているらしい。
目障りにチカチカ輝く明かりを一度鬱陶しそうに見上げながら、独特のリズムで扉を叩いた。やや眺めの沈黙の後、また別のリズムで返ってきたノック音へ、やはり独特なリズムで返す。
度々この部屋へ訪れていたスパイクと、部屋の主である彼女の、二人だけが知る合図だった。
「よォ、元気そうだな」
薄く開いた扉から顔を出した女の頭上から、些か間延びした男の声が降る。
彼の声を最後に聞いたのは、三年ほど前だっただろうか。懐かしさと安心感を得られる旋律を噛み締めるよう、女はゆっくりと来訪者の姿を見上げた。
折れ返る襟の一部だけ色素の薄い、ダークブルーのジャケットの下に、アイロンの掛かっていない薄いクリーム色のシャツが覗いている。更に首から上、煙草を咥える薄い唇、ぼさっとした感のある緑色がかった黒髪と、茶色の優しい瞳。
変わらない。変わっていない。
例え空白の期間にどんなことがあったとしても、レッド・ドラゴンからいなくなったあの頃の彼と、根本的なものに変化は無い。
「スパイクこそ。生きてるとは思わなかった」
「悪運だけは強くてね。ま、ただ死んでないだけの話さ」
部屋へ上がるよう扉を開く彼女は、再会を素直に喜んで微笑んでいる。
だが勘のいいスパイクは、何故だかその笑顔にふと悲壮を感じ取った。妙に居た堪れなくなって一度横の壁を見上げる姿に、彼女は不審の欠片も抱かずに「相変わらずね」と詭弁じみた彼らしい切り返しを笑った。
真っ白で名前のない部屋の表札も、喜色を満面にたたえる笑顔も、昔と何一つ変わっていない。
――気のせいだろ。
足元に落とした煙草諸共、浮かび上がった違和感を靴底で踏み潰し、スパイクは促されるままに部屋へと上がった。
壁紙などが丁寧に張り替えられ、アパートの外観を思えば部屋の中は格段に綺麗だ。初めて訪れたときも、室内と外観のギャップに驚いたことを思い出す。
ただ、今見ている部屋の様子は綺麗というよりはむしろ、こざっぱりして寂然としているような気がする。敢えて例えるならば、夜逃げ寸前、といったところだろうか。
「スパイク、老酒でも飲む?」
何かしら首を傾げる点が幾つかはあるが、向けられる笑顔に虚偽はなく、わざわざ問い詰めるほど子供でもない。
背の高い椅子が二脚備えられた丸テーブル。その上にさり気なく灰皿を差し出した彼女へ細めた目を向けて、スパイクは何にも気付かない振りで肩を竦めた。
「悪かぁないが、老酒が煙草に合うかねぇ……」
「ざら目を入れないままなら合うわよ、きっと」
くすくすと笑って言って、やはり物の少ないキッチンへと向かう。女の背中を見送ってから、煙草に火を点けて灰皿を引き寄せた拍子。整頓の成されたテーブルの上に、パンジーの鉢植えが乗せられているのを見て手を伸ばす。
ふと触れた青紫色の花弁はざらついていて、スパイクの眉間に浅い皺が浮かぶ。
指先の触り心地が、妙に官能的な気がした。