聲 | libre

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  • 2019/07/16 18:33

文マヨ/くにきださんネームレス夢/『文スト』ではなく『文マヨ』です

 

 先刻、夕陽が水平線の向こうへと沈んでいった。
 仲間と賑やかに過ごした夏の海は、日暮れと共に、静けさと――哀愁を潮風に乗せてくる。海岸特有の纏わりつく風を受けながら、国木田は四角四面を体現したかの様な眼鏡を、指先で持ち上げた。
 砂粒の擦れ合う音が近付いて、波は爪先ごと陸をじわりと侵した。冷たいとは言い難い微妙な海水に濡れ、足元へ視線を落とす。
 未だ夜に成り切らぬ海の、闇に沈みかけた水の色が、不意にあの水槽を思い出させた。
 美しかったのだ、彼女は。
 水中で揺らめいた黒髪も、一目で判る怜悧な瞳も、能く整ったかんばせも。今ですら――あの血の海に沈んだ末路を見た今ですらも、美しかった記憶の方が色濃く残っている。
 理想の二文字に誓って。此れまで、其の後を追おう等と考えた事すら無かった。
 だが然し、夜の海とは斯くも悲嘆を呼び起こすものなのか。いっそそうした選択肢が有っても、と云う、手帳に書かれていない様な詮無き事が国木田の堅い頭に一瞬過ぎる。
「――国木田さん!」
 俄かな呼び声で、はっと我に返った。
 想い出にしか存在しない、彼女の聡明そうな声ではない。今、其処に存在する、確かな別の聲――。
 ふと横を見る。すると、此方へ向かって来る人影が在った。砂に足を取られ、今にも転けそうになりながら必死で駆けて来る姿に、思い掛けず胸が締め付けられる様な想いがした。
「く、国木田、さん……!」
 足を縺れさせながら隣まで来ると、女は乱れた呼吸の侭、絞り出すかに名を呼んだ。酷く震えた其れは明らかに涙声で、国木田は僅かに戸惑う。
「……どうした?」
 問われた女が、だって、と云いながら国木田を眼差す。
「貴方が、何処かに、消えてしまいそうな、気がして……っ」
 指先が、縋る様に、繋ぎ止める様に、服の端を掴んだ。
 国木田が、息を呑む。
 莫迦な、と嘲笑うには、罪悪が有った。何より、彼女の潤んだ瞳は真剣で、健気で、夜の深まる水辺に於いても――美しかった。
「俺は、……俺は、何処にも行かん」
 潮騒の間に落ちる呟きは、誓いを改めるが如く。夜の海に昏れかけていた国木田の目に、光が戻る。
「本当、ですか……?」
「無論だ。俺には未だ叶えるべき理想が残っているのでな」
「よかった……」
 女は泣きそうな顔で細く息を吐くと、裾を掴んでいた指を離し、砂の上にへたり込んだ。へたり込んだ侭で上を見上げ、
「私……そんな貴方が、好きです」
 潮風の随に、だが確と云って、微笑んだ。
 真っ直ぐな想いを持て余し、国木田は内心で酷く狼狽する。暫しの沈黙を挟むと、何とか「憶えておく」とだけ紡ぎ出した。
 今はまだ彼女の気持ちに応える事は出来ない。然し、鼓膜を揺らした確かな聲は、胸に漣を立て続けている。其の心の動きは、いつかまた夜の海に訪れたとしても、今度はきっと、今宵の想い出を浮かべるのだろうと確信できる程、心地好いものだった。
「そろそろ彼奴等が喧しくなるな……帰るぞ」
 云いながら、手を差し出す。
「……はい」
 彼女は一瞬の迷いの後に手を取り、立ち上がる。慌てて手を離すと、足についた砂を払い出した。正面から告白をしてきた今しがたの姿とは裏腹に、睫毛は面映げに下を向いている。
 国木田は黙った侭、口元を密かに緩めた。
 僅かに火照る肌に吹いた潮風が、今は少し、愛おしかった。

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